知ってた?足尾銅山社長 古川市兵衛と「運鈍根」

運鈍根って、何?
あなたは『運鈍根』という言葉を知っていますか?
ググるとこういう風に書いてありました。
『成功するには、幸運と根気と、鈍いくらいの粘り強さの三つが必要であるということ。』
この言葉を初めて聴いた時、僕は首を傾げました。
運気と根気は分かるとして、
鈍いというのが分からない…。
鈍?
この運鈍根の元になったのが
『古川市兵衛』
という人物です。
彼はこう言っています。
「人間はほんとうに利口で、ほんとうに精を出し、ほんとうに辛抱強ければ必ず運が開けてくるものだ。
わしはこれをバカのひとつ覚えで、運鈍根とお題目のように唱え続けている。
人間にもっとも大切な運は鈍でなければつかめない。
利口ぶってチョコマカすると運のほうでツルツルすべって逃げてしまう。
鈍を守りきるにはどうしても根がなければならない」
参考→≫…相場格言…「相場は運・根・鈍」
そして古川市兵衛を有名にしたのは、日本史で悪名高い
足尾銅山鉱毒事件で訴えられた企業の社長としてでしょう。
古川市兵衛

足尾銅山鉱毒事件とは、あの田中正造が明治天皇に直訴した、
日本初の公害事件です。
足尾銅山跡

田中正造

足尾銅山の精錬所から出た鉱毒により、渡良瀬川流域の住民に健康被害をもたらしました。

僕は、学校の教科書で足尾銅山鉱毒事件は知りましたが、その企業側の事は知りませんでした。
古川市兵衛とは、どんな人物なのでしょう。
彼は京都で代々庄屋を務める家柄でしたが、父の代には没落して、豆腐を売りながら苦労を重ねていました。

継母が病気で倒れ、母方の叔父が訪ねて来た時に、市兵衛は親族の元で修行する事を希望し、盛岡で貸金の取り立てを手伝います。
志を胸に修行

その後、転職するも倒産し、叔父の口利きで京都小野組の番頭の養子となり、名前を古川市兵衛と改めます。
その後、生糸の買いつけで巨利を上げ、小野組での地位を高めますが、ここに大きな落とし穴がありました。
時は明治時代。
その頃、
政府が企業1つ潰すなんて事が簡単に出来ました。
規模が違いますが、アメリカのトランプ大統領が、中国のファーウェイの禁輸措置をとるように、相手国への嫌がらせがありました。
明治政府は特定の企業に対して嫌がらせする事があったんです。
この時の明治政府は、公金の取り扱い業務を突然政策変更して、その結果、
企業に莫大なお金の用意が無ければ廃業せざるを得なくしました。
渦中にあった小野組は、壊滅的な打撃を被り、市兵衛は引き上げ金の減額を頼むために
陸奥宗光に談判します。
陸奥宗光って、歴史の授業では、日露戦争後にポーツマス条約で不平等条約を改正したので有名な明治の政治家ですね。
陸奥宗光

これが縁で、
市兵衛は後に陸奥宗光の次男を養子に貰うほどの関係を築きますが、
市兵衛の属していた小野組は最終的に破綻します。
一方で、小野組と取引のあった渋沢栄一(新一万円札の人)の経営する第一銀行に対して、市兵衛は倒産した小野組の資産や資材を提供する事で連鎖倒産を防ぎ、渋沢栄一という有力な協力者を得ました。

小野組破綻後、市兵衛は独立して事業を行なう事にします。
手始めに秋田県の官営鉱山2つを政府に払い下げて貰おうとしましたが、却下されます。
次に新潟県の草倉鉱山の入手を企画、渋沢栄一から融資の内諾を貰うも、これも政府に却下されます。
市兵衛は、明治政府から目をつけられていたため、厳しかった訳です。
しかし、市兵衛は小野組時代から縁のあった相馬中村藩主を名義人として、市兵衛が下請けするという形で1875年、政府から草倉鉱山の払い下げを受けます。

2年後、市兵衛は鉱山業に専念する事を決意し、いよいよあの足尾銅山を買収する事になります。
足尾銅山は江戸時代を通じて無計画に採掘が行われた結果、生産性が極めて低く、なおかつ市兵衛は現場の山師集団から激しい抵抗を受けました。

こうして4年間は、これといった成果もありませんでした。
しかも現場責任者である坑長も立て続けに3人が交代して、次の坑長が見当たりません。
市兵衛は4人目の坑長として、当時20代半ばだった甥の木村長兵衛を抜擢、その1年後、足尾銅山払い下げから4年目にして待望の大鉱脈を当てました。

その後、足尾銅山では立て続けに大鉱脈を掘り当て、銅の生産高は急上昇する事になり、古川財閥としての礎を築いて行く事になりました。
しかし、ご存知のように、
足尾銅山では鉱毒による被害が広がり、農村は疲弊しました。

こうして市兵衛は村から恨まれる存在となりましたが、強力な味方がいました。
先程も書いた陸奥宗光卿です。
陸奥宗光の次男を養子にした事で、市兵衛は村人からどんな抵抗を受けても、国会議員の田中正造から「(陸奥宗光の)倅」について追求されようとも、毎日自分の仕事を勤め上げて行きました。
ただし、
市兵衛の奥さん(市兵衛は3回結婚しますが、この時、2回目の為子という女性)は足尾銅山鉱毒事件の渦中で神田川に入水自殺します。

村人の怨嗟の声で精神が耐えられなかったのでしょうね。

けれど、運鈍根の男、古川市兵衛は奥さんが自殺した事を聴いても、次の日にはいつも通り会社に出社し、いつもと変わらずにルーチンワークを続けたそうです。
運鈍根の「鈍」というのは、このように鈍いくらいの粘り強さの事をいう。
そういう事なのでしょう。
この古川市兵衛という人は幸せだったんでしょうか。
2020年の現在ではCOVID-19ウイルスが蔓延し、経済的にも厳しくなって来ましたが、今の厳しい状況での日本人なら、市兵衛の生き方を真似しようという者もいるのでしょうか?
僕は、人間の心はそう強くないと思ってしまいます。
市兵衛は黄綬褒章の勲章を受け、従五位の位階まで上り、享年71歳で亡くなりました。

そして、養子に来た陸奥宗光の次男(潤吉)が市兵衛の跡を継ぎました。
跡を継いで2年後、潤吉は、市兵衛のもう1人の息子であった虎之助を養子として、後継者を決めます。
さらに潤吉は2ヶ月後、古川鉱業会社を新設、社長に就任しました。
しかし、
この9ヶ月後、この陸奥宗光の養子は肺炎を発し、ほどなく亡くなってしまいました。
享年36歳でした。
古川市兵衛を詳しく知るには、こちらの本がとってもオススメです。
『政商伝(三好徹)』
6人の商人をつづった短編集です。
〇覆面の政商・三野村利左衛門
〇薩摩の鉅商・五代友厚
〇王国の鍵・岩崎弥太郎
〇冒険商人・大倉喜八郎
〇ちょんまげ政商・古河市兵衛
〇走狗の怒り・中野梧一
僕は最初、図書館で見つけましたが、1993年の古い本なので、最寄りの図書館にはないかもです。
幸せって何だろう?
そう考える一助になれば嬉しいです。
ちなみに公害を起こした他の企業と同じく、古川市兵衛の作った会社は古川グループとして今も営業しています。
今回は、ここまでです。
ここまで読んで下さった皆さん、お疲れさまです。ありがとうございました。
(^^ゞ

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